青年ダイアリー

無知で愚鈍なる青年のとりとめのない想い

こだわり

こだわりっていいですよね。
別に誰かに分かってもらえなくても。
結局は自己満足にすぎないかもしれませんが、何かに対して強い愛情がある証です。

私は趣味で楽器をやっていますが、
やはりサウンドを聴いただけで、
あ、これはあの人だな!!
って分かってもらえたら嬉しいんです。

服だって、よく見てみると、
実は細部にこだわりを感じる
なんてのはとても素敵ですよね。

真っ白Tシャツにデニムやゆるいパンツだけで出かける事がほとんどですが、それでも私なりのこだわりがあります。

それは一貫してサイズ感を追求してることです。ゆるいなら、ゆるいなりの丁度よさを。タイトに着るなら、タイトなりの丁度よさを。

サイズ感にこだわるということは、質感にもこだわることになります。

気に入れば500円のTシャツも着ますし、普段はもっぱら2000円もしないTシャツです。でも、そこには私なりのこだわり。


なーんとなく、高ければいいなんて考えたりしがちな身の回りのあれこれですが、興味と愛情さえあれば、全てが楽しく見えてきたりするかもしれません。

何事にも波があると思っています。

最近はなんとなく嫌だ。
最近はなんとなく好き。

何かに対して、そんな具合に
相反する感情が浮き沈みして現れるのは
何もおかしい事ではないと感じています。

だって、大好きな友達でも
会いたくないと、ふと思う時は
誰だってありませんか?

何事にも波がある。
そうやって考えてみたら、
なんとなく気持ちが楽になりそうな。

そんな気がしました。

私だけを愛して

私だけを愛して。
私以外を見ないで。

そんな事、言われても。
君の気持ちはよく分かるけどさ。
君の大好きな僕が、君じゃない誰かにちょっとでも興味ありげだと嫌なんだろう。

僕は嫌じゃないかって?
嫌か、嫌じゃないかって、
そんな、二択しかないのか。
僕は、そうだな、二択の中間だよ。


君はワガママだ。
君の事は好きだし、愛しているよ。
でもワガママだなあ、
私だけを愛してだなんて。

だって本当は、
私だけを愛して、の続きがあるんだろう。
私だけを愛して、そして私を満足させてって言いたいんだろう。

それじゃあ君は僕の事も、満たしてくれるか??

そういう事じゃないか。

思いやりの精神

本音を正直に吐き続ける人がいる。
例えば、現実世界の対人状況で。
例えば、仮想世界にて半匿名で。

本音を吐き出す事は、気持ちをスッキリさせてくれるようだ。思いが伝われば尚の事良い。

けれど、人の世界は生きづらいから、本音をいつも言い続けてると、人の世界においては「いつまでも精神の幼稚な人」というレッテルを貼られてしまうような、そんな人に育ってしまう気がする。

人と人が関わりあって生きていくという事は、素性を100%は知り得ない、全く別の心と身体を持った生き物が関わりあって生きていくという事だ。関わりあって生きていく、の部分も言い換えるなら、お互いがそれぞれ自分の気持ちだけでなく相手の気持ちも配慮して、歩み寄って生きるとでも言えるだろうか。

もちろん、人を利用してのし上がるような過酷なシチュエーションをぽっと想像した人もいるだろうけれど、ここにおいてそんな状況を想像するのは、私が今ここに書いている事を否定せんとばかりに力んでいる証拠に他ならないのではないだろうか。

腹を割って話すというモノがあるが、これは正直に本音をぶちまけるわけだ。けれども、これは要求を満たす為ではなく、相互の為の歩み寄りの精神から来るものだ。

良家のもとに生まれて、欲しいものは常に与えられ、遊び続けて暮らし、遊びの延長で仕事をしてきて、いつの間にか麻痺してしまい、30歳にもなって精神が猿ほどに幼稚な人間と一緒にアルバイトをした事がある。それも1日14時間、2人きり。それはそれは大変な苦痛であった。その人は仕事を今までしていたのに、私とアルバイト先が同じになったのは、彼が仕事を辞めて飲食店を経営したいと思い、経験として飲食店に勤めはじめたからだ。

今はネットの普及により匿名性がある程度保証された仮想世界で、不特定多数の人間を相手に本音をぶちまけて、それに対して、反応を得て、なんとなく自分の論理が正しいと錯覚してしまったりしてないだろうか?

相手の気遣いに気づかないまま、知らず知らずに自分のわがままな要求を、相手にのみこませてはいないだろうか?

私もかくして、ブログという場所に本音に限りなく近い事を書いているわけだが。それについて反応が、特に肯定や賛同が得られたら嬉しくなったりするものだが.....。

兎にも角にも私は思う。
思いやりとは良く出来た言葉だなあと。
互いを思って、歩み寄る精神は人を美しくすると思います。

SNSとの関わり方について考える

もはや世の中にすっかりと定着したSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)だが、この中で私がよく利用するものが2つある。

それがLINEとTwitterである。

LINEは、完全にこれまでのメールと取って代わった。メールで行っていたプライベートのやり取りは殆どLINEで行うようになった。

これにおいて変わった事と言えば、既読通知くらいである。私は既読がついたかどうかはあまり気にしない性分なので、何もこれについて思う事はない。むしろ便利なものだと感じている。

私が今、頭を悩ませているのはTwitterの方である。

Twitterは、利用者がツイートの非公開設定、いわば鍵垢(鍵アカウント)にしない限り、世界中の誰もが自由にその人のツイートや、投稿した画像や動画、お気に入りに登録したツイート、その人がフォローしている人間、その人をフォローを見る事が出来てしまう。

よくよく考えてほしい、これは非常に恐ろしい事態だ。プライバシーなどの観点からされる、これについての問題点などは既にたくさんされてきた。

今現在、頭を悩ませているのはまた違う観点からの問題点である。

Twitterの国内利用者数はおおよそ2000万人(http://gaiax-socialmedialab.jp/socialmedia/368)だが、特に10代の利用者層がアクティブだ。

手軽さや、(半)匿名性の高さが日本人の性分にはマッチしているのだろうか、私のTL(タイムライン)にはフォローしている人間の普段あまりに口にしないような台詞をよく見る。

特に匿名性がある事がこうした傾向の支えとなっているのだろうか、気軽に内面に秘めたる想いを息を吐くように文字に起こしているような気がするのだ。

私は手元に有効な資料などは持ち合わせていないので、裏付けとなる決定的なものはないが、どうもこうした人の内面を日常的に覗けてしまう世界が手元にあるという事が、非常に人間性というものに悪影響を与えるのではないかと危惧している。

まず、追体験という言葉をご存知だろうか。
どうも例えば、毎日毎日、誰かの愚痴を読み続けていると、読んでいる人自身もそれを体験しているかのように脳が錯覚し、その人の人格にも体験者と似たような影響を与える可能性があるというものらしい。

まあなんとも恐ろしいものだ。2chなどでもよく言われているが。Twitterの半匿名性は時に、非常に不安定で乱暴な心の本音を吐かせる。

パッと見てるだけではなかなか気づかないかもしれないが、読書をする時に読む文章、日常的に交わす友人との会話、そうしたものとTwitterに投稿されるつぶやきは意外にも大きな違いが見えないだろうか。


そして、インターネットの普及により懸念された情報へのアクセス性の向上によるデメリットだが、Twitterにもそれと似た側面があると思う。

10代の若者が、Twitterという狭い世界で繋がりを持つ、それもリテラシーや更にそれに基づくモラルも満足に具備しないままに。

人は群れると恐ろしい。
何も怖くないように思えるから。

今話題となっている10代の若者、中高生らがネットに投稿するカップルのキス動画だが、こうしたものが横の繋がりがメインの、狭い世界で普及する。となればどうだ、そのコミュニティの多くはそれこそ普通のものだと、世間一般の共通に持つべき常識のようなものと錯覚してしまうのではないか。

こうした狭い世界で交わされる各人の経験や、つぶやきは、世界中が繋がる大きなメディアの上にある。けど彼らが見てるのはやはり、世界中が繋がる大きなメディアの中の、せいぜい中規模程度の、似たような人間が集まっだけに過ぎないレベルの低いコミュニティで交わされる情報に過ぎない。

メディアの規模感から、中高生の"世間一般"という、いわば常識と呼ばれてきたものに対する態度が変わりつつあるように思える。

これは、過去から一定数存在してきた層に対して、私のような人間がアクセス出来るようになっただけなのかもしれないのだが。

そして、まだたくさんあるのだが、長くなってしまうので最後にしようかと思うが、Twitterでのアクティブさが頭を悪くするような気がするのだ。

ここにきて断りを入れておくが、ここまですべて、一般化できる話ではない。

ただTwitterをやっていて、本を何度目か読みきった時のような、学んだ感覚や、視界が広がる感覚は、どうも先に述べた中高生コミュニティのような世界、またアルファツイッタラー達のようなコミュニティ、またはオフを繰り返して出会いツールと化したコミュニティなどではどうにも味わえないし、なんだか身体の毒になるような気がしている。

普段会えるような友人達のつぶやきを見ていてもそうだ、普段話す事と変わらないか、それよりも内面的な部分が出ている。私は普段から会えるような友人達のつぶやきなら、たまに見るくらいで充分に満足だし、見なくても構わない。

Twitterに対するコミットの度合いが上がれば、費やす時間も増える、そうなればつぶやきの内容もより練られるようになる。日常の尊い時間を犠牲にしてしまっている可能性すらあるのだ。

いつもの事だが、どうにもとりとめのない、拙い文章になってしまった。ここまで読んで頂いた方がいらっしゃれば、感謝の気持ちで一杯です。

適度にこうしたSNSを利用できる人は何の気苦労もしないだろうが、なんとなく心が満たされなくて、ついつい入り浸ってしまう、でも抜け出したいな....そんな人は案外と多いと思うのだ。

私もそんな時がよくある。
そしてそのたびTwitterには、自分で規制がかかるツイート数の上限を設定できる機能がつけばいいのになあ、と感じるのだ。

持たざるは豊かなり?

あなたは一人暮らしですか?
それとも恋人と二人で暮らしていますか?
もしくは、両親や家族と一緒に暮らしているかもしれない、はたまた、妻子と暮らしているかもしれない。

どんなシチュエーションでも構いません。
ちなみに私は一人暮らし。

話の本題に移ります。
一つの問いをここに提示します。

「あなたは、どれだけのモノを持っていますか?」

例えば、靴。
あなたの下駄箱には15足の靴がある。
働く男性なら何種類か革靴が欲しいですが、普段プライベートで履く靴はどうでしょうか。気に入って買ったはずの靴は、まだ3回も履いていなかった、なんて事はありませんか?

学生さんにはよくある事かもしれません。
何かに足りないような、そんな空虚な心の隅っこを埋めるように外部から何かを取り入れたくなるキモチ。

あなたのクローゼットやハンガーラックには、お気に入りの服がたくさんありますね。一目惚れして買ったそのジャケットは今月着ましたか?大好きだと言っていたそのコートは、去年何回着ましたか?

あなたのキッチンには食器が何枚ありますか?積み上げた一番下の大きなお皿、1度でも使いましたか?


身の回りを見渡してみると、モノが溢れています。上手に使えていますか?ほったらかしにしてはいませんか?

服を選ぶのに迷って、結局よく着るTシャツを手に取った休日の午前。いつも面倒で一番上のお皿を手に取る仕事帰り。
モノが多いばかりにあなたの心は疲れているかもしれない。あなたの心は空虚なままで、外部から何かを取り入れて、満たされたつもりになっているかもしれない。

具体的な言葉までは忘れてしまったが、ショペンハウエルは彼の著作、幸福論について(処世術箴言より)において、社交や、名誉や、栄華といった対外的なもののために対内的な富を犠牲にする事を痛烈に批判している。また、その書の始まってすぐの部分で、愚鈍な人間は余暇を与えられれば、俗世界の色んなものに目移りするばかりで結局満たされないと皮肉っている。

精神的に豊かでないから、それを誤魔化したい、心の満たされない現実を外部から何かを取り入れて満たされた気になりたい、そんな愚の骨頂というべき姿になるな、と。精神の豊かさを考え、内的に満たされよう、と言っているのだ。

若干話は逸れてしまったが、あなたにとって本当に必要なものは何だろうか。勿論、無駄を全て省けば良いという極論を語っているのではないのだ。

断捨離というものがかつて流行ったりしたが、真に必要なものを見極めることで身の回りをスッキリと整理してみてはいかがだろう。持たざるは豊かさなり、だ。

きっと、驚くほど身軽になるはずだ。
暖かくなってきたこの季節だが、まだ今シーズンは始まったばかり。軽やかなステップで2015年度を走り抜けたい。