青年ダイアリー

無知で愚鈍なる青年のとりとめのない想い

思いやりの精神

本音を正直に吐き続ける人がいる。
例えば、現実世界の対人状況で。
例えば、仮想世界にて半匿名で。

本音を吐き出す事は、気持ちをスッキリさせてくれるようだ。思いが伝われば尚の事良い。

けれど、人の世界は生きづらいから、本音をいつも言い続けてると、人の世界においては「いつまでも精神の幼稚な人」というレッテルを貼られてしまうような、そんな人に育ってしまう気がする。

人と人が関わりあって生きていくという事は、素性を100%は知り得ない、全く別の心と身体を持った生き物が関わりあって生きていくという事だ。関わりあって生きていく、の部分も言い換えるなら、お互いがそれぞれ自分の気持ちだけでなく相手の気持ちも配慮して、歩み寄って生きるとでも言えるだろうか。

もちろん、人を利用してのし上がるような過酷なシチュエーションをぽっと想像した人もいるだろうけれど、ここにおいてそんな状況を想像するのは、私が今ここに書いている事を否定せんとばかりに力んでいる証拠に他ならないのではないだろうか。

腹を割って話すというモノがあるが、これは正直に本音をぶちまけるわけだ。けれども、これは要求を満たす為ではなく、相互の為の歩み寄りの精神から来るものだ。

良家のもとに生まれて、欲しいものは常に与えられ、遊び続けて暮らし、遊びの延長で仕事をしてきて、いつの間にか麻痺してしまい、30歳にもなって精神が猿ほどに幼稚な人間と一緒にアルバイトをした事がある。それも1日14時間、2人きり。それはそれは大変な苦痛であった。その人は仕事を今までしていたのに、私とアルバイト先が同じになったのは、彼が仕事を辞めて飲食店を経営したいと思い、経験として飲食店に勤めはじめたからだ。

今はネットの普及により匿名性がある程度保証された仮想世界で、不特定多数の人間を相手に本音をぶちまけて、それに対して、反応を得て、なんとなく自分の論理が正しいと錯覚してしまったりしてないだろうか?

相手の気遣いに気づかないまま、知らず知らずに自分のわがままな要求を、相手にのみこませてはいないだろうか?

私もかくして、ブログという場所に本音に限りなく近い事を書いているわけだが。それについて反応が、特に肯定や賛同が得られたら嬉しくなったりするものだが.....。

兎にも角にも私は思う。
思いやりとは良く出来た言葉だなあと。
互いを思って、歩み寄る精神は人を美しくすると思います。