青年ダイアリー

無知で愚鈍なる青年のとりとめのない想い

SNSとの関わり方について考える

もはや世の中にすっかりと定着したSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)だが、この中で私がよく利用するものが2つある。

それがLINEとTwitterである。

LINEは、完全にこれまでのメールと取って代わった。メールで行っていたプライベートのやり取りは殆どLINEで行うようになった。

これにおいて変わった事と言えば、既読通知くらいである。私は既読がついたかどうかはあまり気にしない性分なので、何もこれについて思う事はない。むしろ便利なものだと感じている。

私が今、頭を悩ませているのはTwitterの方である。

Twitterは、利用者がツイートの非公開設定、いわば鍵垢(鍵アカウント)にしない限り、世界中の誰もが自由にその人のツイートや、投稿した画像や動画、お気に入りに登録したツイート、その人がフォローしている人間、その人をフォローを見る事が出来てしまう。

よくよく考えてほしい、これは非常に恐ろしい事態だ。プライバシーなどの観点からされる、これについての問題点などは既にたくさんされてきた。

今現在、頭を悩ませているのはまた違う観点からの問題点である。

Twitterの国内利用者数はおおよそ2000万人(http://gaiax-socialmedialab.jp/socialmedia/368)だが、特に10代の利用者層がアクティブだ。

手軽さや、(半)匿名性の高さが日本人の性分にはマッチしているのだろうか、私のTL(タイムライン)にはフォローしている人間の普段あまりに口にしないような台詞をよく見る。

特に匿名性がある事がこうした傾向の支えとなっているのだろうか、気軽に内面に秘めたる想いを息を吐くように文字に起こしているような気がするのだ。

私は手元に有効な資料などは持ち合わせていないので、裏付けとなる決定的なものはないが、どうもこうした人の内面を日常的に覗けてしまう世界が手元にあるという事が、非常に人間性というものに悪影響を与えるのではないかと危惧している。

まず、追体験という言葉をご存知だろうか。
どうも例えば、毎日毎日、誰かの愚痴を読み続けていると、読んでいる人自身もそれを体験しているかのように脳が錯覚し、その人の人格にも体験者と似たような影響を与える可能性があるというものらしい。

まあなんとも恐ろしいものだ。2chなどでもよく言われているが。Twitterの半匿名性は時に、非常に不安定で乱暴な心の本音を吐かせる。

パッと見てるだけではなかなか気づかないかもしれないが、読書をする時に読む文章、日常的に交わす友人との会話、そうしたものとTwitterに投稿されるつぶやきは意外にも大きな違いが見えないだろうか。


そして、インターネットの普及により懸念された情報へのアクセス性の向上によるデメリットだが、Twitterにもそれと似た側面があると思う。

10代の若者が、Twitterという狭い世界で繋がりを持つ、それもリテラシーや更にそれに基づくモラルも満足に具備しないままに。

人は群れると恐ろしい。
何も怖くないように思えるから。

今話題となっている10代の若者、中高生らがネットに投稿するカップルのキス動画だが、こうしたものが横の繋がりがメインの、狭い世界で普及する。となればどうだ、そのコミュニティの多くはそれこそ普通のものだと、世間一般の共通に持つべき常識のようなものと錯覚してしまうのではないか。

こうした狭い世界で交わされる各人の経験や、つぶやきは、世界中が繋がる大きなメディアの上にある。けど彼らが見てるのはやはり、世界中が繋がる大きなメディアの中の、せいぜい中規模程度の、似たような人間が集まっだけに過ぎないレベルの低いコミュニティで交わされる情報に過ぎない。

メディアの規模感から、中高生の"世間一般"という、いわば常識と呼ばれてきたものに対する態度が変わりつつあるように思える。

これは、過去から一定数存在してきた層に対して、私のような人間がアクセス出来るようになっただけなのかもしれないのだが。

そして、まだたくさんあるのだが、長くなってしまうので最後にしようかと思うが、Twitterでのアクティブさが頭を悪くするような気がするのだ。

ここにきて断りを入れておくが、ここまですべて、一般化できる話ではない。

ただTwitterをやっていて、本を何度目か読みきった時のような、学んだ感覚や、視界が広がる感覚は、どうも先に述べた中高生コミュニティのような世界、またアルファツイッタラー達のようなコミュニティ、またはオフを繰り返して出会いツールと化したコミュニティなどではどうにも味わえないし、なんだか身体の毒になるような気がしている。

普段会えるような友人達のつぶやきを見ていてもそうだ、普段話す事と変わらないか、それよりも内面的な部分が出ている。私は普段から会えるような友人達のつぶやきなら、たまに見るくらいで充分に満足だし、見なくても構わない。

Twitterに対するコミットの度合いが上がれば、費やす時間も増える、そうなればつぶやきの内容もより練られるようになる。日常の尊い時間を犠牲にしてしまっている可能性すらあるのだ。

いつもの事だが、どうにもとりとめのない、拙い文章になってしまった。ここまで読んで頂いた方がいらっしゃれば、感謝の気持ちで一杯です。

適度にこうしたSNSを利用できる人は何の気苦労もしないだろうが、なんとなく心が満たされなくて、ついつい入り浸ってしまう、でも抜け出したいな....そんな人は案外と多いと思うのだ。

私もそんな時がよくある。
そしてそのたびTwitterには、自分で規制がかかるツイート数の上限を設定できる機能がつけばいいのになあ、と感じるのだ。